溜まり場コラム
地域と向き合う男たちへ
ある専業主婦の妻は、その日に起きた出来事を夫に熱っぽく語ることが楽しみでもあり、喜びでもあるようです。ある夜、帰宅後の夫に妻はいつものように話しかけます。
「今日、テニスに行ったの。山本五月ちゃんのママがいたから、お昼ごはん一緒にスパゲッティ食べたの。3時間も話しこんじゃったから疲れちゃった」。
そんな他愛のない話を聞く夫。妻とは対照的に憮然。仕事から帰ってきて、「お前は、遊びの話をする前に、今日も1日お疲れさまでした、だろう・・・」とでも言いたげな表情。
妻の期待とは裏腹に、夫の口から出るのは、「あっ、そう」がせきのやまなのかも。
テニスに行った。友人と食事をした。話をして疲れた。
夫の耳には、妻の一日の行動が1つの事実として聞こえてきます。いつもの、至極無味乾燥な話として。
妻が期待する一言。
「そう~なんだ。スパゲッティは美味しかった? 3時間も話しこんだんじゃ、疲れたろう・・・」。
妻はいたわりに満ちた、優しい一言がほしいのでしょう。
そんな一言を待ち、日々を過ごす妻。それに応えていない夫。
妻の心の動きを把握できない夫と妻のこのような日々が常態化しているとしたら、それは恐ろしいことかも。このズレ、実は夫婦間に1つの溝をつくり、妻の胸中には不満と不信を鬱積させていくことになるのかもしれません。
ささいなことで起きてしまう夫婦ゲンカ。
一見、口火を切るのは妻のようですが、恐るべき怒りのエネルギーを醸成してきたのは、他ならないその夫であること、男性たちにその認識はあるでしょうか。妻たちが集まると、必ずと言っていい“わが夫への痛烈なバッシング”。その因をわが言動が招いた悲劇であること、認識しているでしょうか。夫婦間のこのような関係、やはり修正する必要があるのではないか、と考えざるを得ません。
この章のタイトルにもあるように「夫婦が互いに向き合うこと」が、子どもの教育にとって必要、という点について考えてみたいと思います。
家族、という最も小さな社会集団。
この集団の中で、その親たちによって支えられている子どもたち。“両親”が密接なコミュニケーションを欠いているとすれば、子どもにとって精神的なバランスを失いかねない状況をつくりだすことにならないでしょうか。
この関係を彼らは独特な嗅覚により、読み取る能力を持ちあわせている、と規定します。だとすれば、その危うさは、一方で学校という外の世界に向かうかもしれません。また、家庭という内の世界に向かうかもしれません。いずれにしても、このような状況が彼らの心に荒廃をもたらす要因になる可能性がある、といえます。昨今、地球環境問題が人類の大きなテーマとして取り上げられています。いわゆる「外の自然」です。
これと同様に、むしろ、より大きな問題に、「内の自然」という、心の荒廃という側面があります。その解決の鍵が家庭教育にある、という指摘もあります。
ただ、子どもたちにとっての「内の自然」を荒廃させないため、夫婦が互いに向き合うことが何よりも必要なことだと思います。そして、子どもに対する思い、痛みを互いが分かち合える、そんな関係が醸成できれば、きっと、あるべき家族の姿になるのではないでしょうか。